達人の身近な話(2)

また陳発科の話。
呉式太極拳の劉慕三が自分の弟子を連れて、
陳式太極拳の陳発科に弟子入りした。
その弟子の中に楊益臣という人がいて、
その人の弟が思い出話を語っている。
それによると、
この楊益臣の家は当時経済状況がよく、
たびたび陳発科を招いてご馳走したり、
生活に不便をかけないようにしていたらしい。
そして楊益臣自身もよく練習して、
陳発科の早期の弟子の中で指折りの存在だったという。
その頃、戦争が始まり、
主要な役所が北京から西安へ場所を移した。
電報局に勤めていた楊益臣も西安に居を移した。
陳発科は北京に残ったが、
弟子が少なくなってきたので楊に手紙で、
「自分も西安に行って太極拳を教えたい。」
と書いたが、楊が、
太極拳発祥の地である陳家溝から、
戦火を避けて西安に移り、太極拳を教えている人がたくさんいる。
その上、西安で武術を教えて得られるお金は北京には及ばないでしょう。」
と返事を出したので、陳発科は西安に来なかったという。
陳発科と言えば、
現代の陳式太極拳を学ぶ人からすると、
まるで神様のような伝説の達人である。
もし現代に陳発科がいて、
太極拳の教室を開くとなれば、
すぐ大変な数の学習希望者が押し寄せるだろう。
しかし、戦争中ということもあってか、
達人も当時は苦労していたのである。