震災の日(2)

さて、避難先の小学校体育館は人でいっぱいだった。
双子の赤ん坊がいるのでは、
早晩様々な不都合が生じるのは目に見えていたので、
とにかく電車が動いているところまで行って、
電車で高槻に行くことにした。
赤ん坊を背負って歩くのは大変だが、
当時は若かったせいもあり、さほど苦にならなかった。
歩いていると、血だらけの人や泣いている人もおり、
ガス管が破裂したのかガスくさいにおいが漂っていたりした。
当時の報道にもあったが、そうした混乱の中でも
不思議な静けさと譲り合いや助け合いがあった。
背負っている赤ちゃんが泣き続けているときに、
見知らぬおばさんが、
「おむつが濡れてるのと違う?
うちに紙おむつあるから、うちでおむつ換えたら?」
と親切に声をかけてくださり、お言葉に甘えたこともあった。
夙川あたりまで来ると、赤ちゃんが風邪気味だということもあり、
また自分たちが歩き疲れたこともあって、
家内や姉と赤ん坊は交番や近くの体育館で休憩させてもらった。
途中、通話できる公衆電話があったので、
大阪の私の実家に電話したところ、
弟が車で迎えに来てくれるというので、
結局夙川駅で弟の車を待つことにした。
何せ道路は大渋滞だから、弟がいつ着くかわからない。
私は夙川駅前ロータリーで待つことにした。
夕方頃から待ち始め、ようやく車が着いたのは、
日付が変わった頃だった。
大阪の私の実家で一晩泊まった後、
姉たちは四国へ帰っていった。
家内の祖母は他の親戚の家に行き、
数日後ようやく家内の両親は高槻の家に来ることができた。
義父は風呂に入ると、「何よりのごちそうだ。」と言い、
ここ数日の疲れをわずかでも癒すことが出来たようだった。